リーダーシップその2

先日、セミナーに参加くださった
入社2年目の方は、上司や先輩へ
どんどん働きかけて、
影響力を発揮している方でした。
これぞリーダーシップの発揮!

ちいさなことからコツコツと、
の例がいくつもあって、
「微の集積」です。

まずは『ペンの標準化』。
文具屋で、1時間かけて「書きやすいペン」を厳選。
ペンの書き心地一つでも、業務の生産性につながるからだと。
そのペンを周りの人にも使ってもらうことで
その良さが伝わり、今や彼が選んだペンが、
その部門の標準商品になっているとのことです。

次に『5Sの素晴らしさを啓蒙』。
5Sを行うことで、どんな素晴らしい未来が
実現できるのかを周りの方に熱く語っているそうです。
そのことに啓発され、5Sに取り組む方も
少しずつ増えているのだと。

素晴らしいなあ、と思います!

リーダーシップ

リーダーシップといえば思い出すのが、
ソニーの創業者、井深大氏が語ったリーダー論です。
この話を思い出すたび、胸が熱くなります。

ソニーの社長時代、
最新鋭の設備を備えた厚木工場ができ、
世界中から大勢の見学者が来られました。
しかし一番の問題だったのが便所の落書きです。

会社の恥だからと、
工場長にやめさせるよう指示を出し、
工場長も徹底して通知を出した。
それでも一向になくならない。

そのうちに『落書きをするな』
という落書きまで出て、
私もしょうがないかなと諦めていた。
するとしばらくして工場長から電話があり
『落書きがなくなりました』と言うんです。
『どうしたんだ?』と尋ねると、
『実はパートで来てもらっている便所掃除のおばさんが、
 蒲鉾(かまぼこ)の板2、3枚に、
“落書きをしないでください
ここは私の神聖な職場です”
と書いて便所に張ったんです。
それでピタッとなくなりました』
と言いました。

井深さんは続けて

「この落書きの件について、
私も工場長もリーダーシップをとれなかった。
パートのおばさんこそがリーダーだった。
リーダーシップとは上から下への
指導力、統率力だと考えていましたが、
誤りだと分かったんです。

以来私はリーダーシップを
“影響力”と言うようにしました」。

リーダーシップとは、指導力、統率力、
だけではなく、その人の「仕事に向き合う姿勢」や、
「あり方」そのものもリーダシップになるのだと
深く納得したのでした。

否定する

大阪→兵庫→福井→名古屋→東京の行脚も
いよいよ終盤戦です。
雨で新幹線が遅れないようにと願っていましたが、
まもなく東京に着くようで、一安心です。

自分たちが最高だと思ってやっていることを
真っ向から否定しないと、
新しいものは生まれてこない」。
(飯田亮 セコム創業者)

今までやってきたことを否定するというのは、
なかなかに、勇気の要ることですが、
今は、どうやらそういう節目に来ているように
思います。

安住することなく、挑戦し続けていきたいものです!

空(くう)

般若心経の中でも核心の思想といわれる「空」。
わかったようなわからないような概念です。
ということで、以前観た100分de名著の
「空」の特集を再度視聴。

世界は「空」である。
この世の物質要素(色 しき)は、
「実体がないという状態(空 くう)」であり、
この窓から見える景色も、変わっていくから美しい。
移りゆく世界は、「空」の中からあらわれてくる現象。

太陽は朝、東に上り、西に沈む。
満開の桜も10日もすれば散ってしまう。
うつろいゆく世界には何か法則があるのではないか。
それを「空」と呼んだ。

これは自分とて同じ。
「ここに自分というものがある、という想いを取り除き、
この世のものはすべて空であるとみよ」。
これがお釈迦様の説いた空。

空は私たちにポジティブなエネルギーを与えてくれる。
永遠のものなど何一つない。
ならば、一瞬一瞬に意義を見出すことである。
苦しんでいることも、永遠にそこには存在しない。
永遠の愛が続かないこともある。

「色即是空」とは一つの宇宙観。
この世の物質要素は永遠ではない。
「空即是色」とは、すべては移ろいゆくからこそ美しい。
変化するさまが美しい。

やっぱり難しい・・。

生きることは過剰性とのたたかい

今しがた福井に着きました。
春の陽気から一転、真冬のような寒さです!

道中、サンダーバードで読んだ月刊誌。
宗教学者であり僧侶の釈徹宗氏と、
クローズアップ現代の元キャスター、
国谷裕子氏の対談記事のこんな言葉に
目が留まりました。

『生きることは、自分の中の過剰性との闘い。
その過剰さをどうコントロールするかで、
幸せにも不幸にもなる。
人の幸福を考えるために、
これからはフェアとシェアに
目を向ければならない』。

確かに!過剰に求める心には際限がありません。
もっと、もっとと求め続けている心には、
いつまでたっても満たされている感がありません。
さらに対談は続きます。

『仏教では、人が生きる上で避けることのできない
苦しみの根源に、「過剰なもの」があります。
わたしたちはこれまで、過剰に求める心で、
大量生産→消費→廃棄をしながら、
経済成長をしてきたが、その流れを
一度立ち止まって見つめなおすことも大事です。

人間の欲望を「ニーズ」と呼び換えて、
ビジネスチャンスを生み出し続けていくと、
地球はもたなくなってしまいます』。

今こそ、過剰性に裏打ちされた生き方を
見直す時なのかもしれません。
最近起きている社会的問題の大半は、
わたしたちの過剰性への警鐘だとも言えますね・・。

問いを忘れる

自分の考えを文章にしてみる。
一人ブレインストーミング風に
徒然なるままに、自分の想いや考えを書いてみる。

その時は、そうだなあ、と納得しても
一晩寝かせて、朝の静寂な中で読み返してみると、
いや、もっとこういった考えもあるな、とか、
ここは違うな、ということがまたまた現れる。

そんなことを繰り返している時、
田坂広志氏の「深く考える力」という本が届く。
以下は、印象に残った一説です。

『例えば、自分である考えを文章表していくと、
ふと、一つの”問い”が心に浮かんでくる。
その問いを自問自答の形で自分に問うと、
最初は心に何も浮かんでこないが、
まもなく心の奥深くから、答えが浮かび上がってくる。
これは「賢明なもう一人の自分」が、
心の奥深くで、自問自答に耳を傾けており、
その問いに刺激を受け動き出し、
答えを教えてくれる瞬間である。

しかし賢明な自分は、いつでも問いに対する答えを
くれるわけではない。
そんな時はどうするのか、というと
「一度その問いを忘れること」。

答えを知りたいという気持ちが強すぎると、
もう一人の自分の直観力は働かない。
しかい考え尽くして疲れ果て、一度、その問題から離れ、
休息をとったときや、睡眠をとったとき、
さらには他の仕事に集中したときや
何かの遊びに没頭したとき、
突如閃くことが多いといわれる。』

無心になったとき、
直観が閃く、ということが確かにあります。
しばらくその問題から離れてみる、
問いを忘れることも大事なのですね。

変化を楽しむ

今、うまく行っていればいるほど、
手の中にあるものが大事であればあるほど、
危機感は薄れ、変化に対して億劫になってしまいますが、
その結果、取り残されてしまうことになりかねません。
ディスラプティブ(破壊的な)イノベーションが
起きている、と言われるこの時代、

「変化は起きる」
「変化を予期しよう」
「変化にすばやく対応しよう」
「変化を楽しもう」
「進んで変わり再びそれを楽しもう」

というような心持ちで、歩んでいきたいものです。

『人生は、何の邪魔ものもなく
歩めるような まっすぐで楽な道ではない。
通る者にとっては迷路で、
自分で道をみつけねばならず、
道に迷い、わけがわからなくなり、
ときには 袋小路につきあたることもある。

しかし、信念があれば、
かならずや道は開ける。
思っていたような道ではないかもしれないが、
やがては良かったとわかる道が、きっと切り拓かれる』。

自分と向き合う時間

1267回目の東大寺二月堂修二会が始まりました。
大仏開眼と修二会創始は、同じ年の752年。
仏法による鎮護国家を願った聖武天皇や僧侶らの、
1千年先の未来を見据えた想い。
これ以降、途切れることなく続いている行法です。

昨夜2時、この1年、二月堂を照らす火が、
堂童子によって切り出される「一徳火」。
真っ暗な堂内に火花が散って、
新しい火が誕生し、そして開白法要が始まります。
人が犯した全ての罪を11人の練行衆が代表し、
十一面観音様に懺悔し、すべての生きとし生けるものの
幸せを願う法会。

3月1日深夜から本行が始まり、
15日昼に満行となります。

「たくさんの命の上に、自分の命があります。
この1年どう生きたのか、自分と向き合う時間が、
修二会だ」と、東大寺第222世別当の狭川氏は
おっしゃいます。

ありがたいご縁に導いていただき、
生まれて初めてこの場を体感しましたが、
声明(しょうみょう)が流れるお堂にいると、
奈良時代にタイムスリップしたかのような
感覚が芽生えてきます。

3月12日深夜のお水取り、
そして、連日のお松明。
修二会をもっと理解するためにも、
足を運んでみたいです!

丁寧に生きる

法相宗の大本山薬師寺と、
律宗の総本山唐招提寺。
仏教興隆のために人生をかけた、
玄奘三蔵と鑑真和上のお心に触れるため、
先日、訪れました。

ジープ島から戻って以来、
「息」の大事さを感じていますが、
この「息を磨く」とは、そういう場所に身を置き、
先人のお心に触れることでもあるのだなあ、と。
また、日々を丁寧に生きることも、、
何かの変化をもたらすのかもしれません。 

丁寧といえば、
染織家で紬織の人間国宝、
志村ふくみ氏の「一色一生」の言葉。

『自分の色というものは、
たった一つしかないのかもしれません。
それを求めてもらいたいと思いますね。

一つしかない色だけど、喜びや悲しみなど様々な感情、
刺激によって輝いていく。
その色に出逢うための人生じゃないですか。

それと同じように、
人の人生も織物のようなものだと思うんです。
経(たて)糸はもうすでに敷かれていて
変えることはできません。

人間で言えば先天性のもので、
生まれた所も生きる定めも、
全部自分ではどうすることもできない。

ただ、その経糸の中に陰陽があるんです。
何事でもそうですが、織にも、
浮かぶものと沈むものがあるわけです。
要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。
上がってくるのと下がってくるのが
一本おきになっているのが織物の組織です。
そこへ緯(よこ)糸がシュッと入ると、
経糸の一本一本を潜り抜けて、トン、と織れる。

私たちの人生もこのとおりだと思うんです。
いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。
でも最後は必ず、トン、とやって一日が終わり、朝が来る。
そしてまた夜が来て、トン、とやって次の日が来る。
これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、
当然いいかげんな織物ができる。
だから一つひとつ真心を込めて織らなくちゃいけない。
きょうの一織り一織りは
次の色にかかっているんです』。